昭和42年7月11日 夜の御理解



なんでも同じですけれども、特に、信心の稽古は、そうだと思うんですけれど、おー、基本が一番大事。基本をしっかりしておかないと、こら、しかし、何の稽古でも、同じだと思うんですね。基礎、基本というものが出来ていなかったら、みんな、もう、砂上の楼閣のようなもんです。ですから、しっかり、その、基本を大事にしなければいけない。今日はあの、今朝から、末永さんがお知らせ頂いておるのに、私、ちょっとその、こまごましい事は忘れましたけれども、御理解に、えー、例えば、あなた方が、布教に出るという時に、あの、修行中の時がもう、修行中でもう大体分かると言う事ですね。この修行、この修行生、この信者は、おかげを頂く、頂けないという事は、もう、基礎の勉強のときに、神様は分かるとこう仰る。というぐらいに、大事なもんだから、現在、修行中という時に、本気で一つ、目の詰まった、あー、もう、この時だけしか出来ない修行だから、しっかりしとかにゃいけないと言う様な、あのー、お知らせを頂いているですね。で、それからしばらくしましたら、またやって来ましたもん。今朝から、あの、先ほど、若先生から、あー、こういう事を言っておられたんですけれども、どういう事でしょうか。そら、若先生が頂いたのを、そこの事務所で、今朝、話したらしいんです。というのは、あの、ひろ子先生と私と、若先生と三人で、一生懸命、田植えをやっている。一きりやらせていただいたら、若先生は、あー、手足を洗うてから、田植えを止められた。そして自分は、釣竿を持って、その、向こうの堀に、魚を釣りにおい出られたというところを頂いた。私は、本当にそれだと思うんですね。えー、田植えという事は、あー、ほんとにあの、おー、大変な手が要るものらしいんですね。八十八回も、米になるまでには、手が要ると言われるほどに、例えばその、一つのことが、ままになる為には、そう言う手を一つでも抜いたら、結局、出来、不出来に関わるという事なんです。ね。そういうところを、例えば、ほんなら、若先生は、ある意味合いで通ったというか、あー、例えばあの、これはまあ、別事ですけれども、あるときに、子供達のことについての、どっか、厳しいところに修行にでも出したいといったような気持ちがあった。ところがですね、この、耳納山の山頂を、ずーっと歩いて行くところを頂いた。ね。わざわざ、下から登らせる必要はない。ただ、この、山頂を、ずーっとこう、歩かせれる信心をさしたら良いといったような意味の事を頂いてから、私は、そういう思いを断念したんですけれど、本人が修行しようというのなら、こらまた、別ですけれどね。親が、どうこうという事じゃない。いわゆる、そういう問題があるんですよね。なかなか初代のような訳にはいかん。親のようなわけにはいかん。もう、これが二代を継ぎきるだろうかというような、私はこれは、信心だけじゃありません。いろんな、大きな事業でもやっておれば尚更のこと、そういうような思いがするんですけれどもね。そういう時には、やっぱその、親の思い通りにしなければ、ああしなければと言う事ではないという事。ただ、神様のお育てを、祈り願わせて頂く以外にないのですけれども、今日のその、御理解を頂いておりますとですね、今あの、なるほど、朝の御理解、御祈念にも出てきませんし、いー、何とはなしに、そういうようなこっで良いかと、ここの若先生として、二代として、まあ、いうなら時々、目に余るようなことがある。ところがその、おー、ひと通りの、まー、修行は身に付けさせて頂いて、一つ、なんて言うでしょうかね、信心の三昧境とでも申しましょうか、ね。どのような中にでも、神様を頂けれるという、どのような中にでも、神様を把握出来れるというような稽古に、今一生懸命になっておるというような意味の事なんです。それを、いっちょしてもらうと、ほんに、なるほど、例えば、夜、夜中に、私共、起きてみると、まあだ、電気がついておる。一生懸命、何か、本読んだり、書いたり、書き物をしておる。いうならば、人は知らないところで、一生懸命、一つの信心の、いわば、研究というか、研修をやっておるという感じ。それを、(代のてから見ると?)はあ、あんた、勝彦ちゃん、そげなこっで良かのと言うような感じがするんだけれども、いわゆる、その、今は、あー、言うなら、しろしい思いをしてから旅をするというのではなくて、ね。楽しみながら、釣りを楽しみながら、その釣りの、いわゆる、三昧境を、体得しようと努力しておる時なのだ。これは、言うちゃならん、ほっとかにゃならん、そして、何かここに、得るところに、ものがあったら、そこからまた、いわば、目の詰まった信心が出来てくるようになった時が、本当のものだと思う。なるほど、信心の三昧境というのは、ね。ただ、修行中の時のような修行しておるという事だけに、あるのではない。どのような中にでも、信心の有難さというのが味わえれるものだと、言うような御理解を今朝から頂いて、まあ、いわゆる、ご合点させて貰うことがあったんですけれども、これは、お互いの、家庭、家族の上においても同じ事がいえるんだと、こう思うんですね。ですから、あのもう、本当に、子供が着いて来ませんとか、色々な、悩み、親の悩みを聞くんですけれども、やはりあの、親の信心を、間違いのない、あり方にならせて頂いて、神様のお育ての中に、それもありゃ、これもあるんだと言う事が、分からせて頂いたら、安心が行くだけではない、その事に対して、お礼が言えれるような気が致しますですね。今日、末永さんがお届けさせて頂きました、その、二つのことから、そんなものを感じさせてもらった。お互いが、修行させていただく、修行の一つの基本、基礎を学ぶ時には、これはもう、綿密に越したことはない。いうなら、それこそ、おー、素養のない、ね。細かいところに、気を配らせて頂いての信心が必要だという事を思うですね。どうぞ。


中村良一
2005年4月13日